連載記事6.旅立ちは目前に

連載記事4.に引き続き
神奈川県にて生まれ、現活動拠点の高知県に引っ越すまで(〜小学4年)。

以後  筆者 中田享:中  KENGO:K

中: 神奈川県に生まれ不安定な家庭環境の最中、小学3年生の頃には登校拒否の状態だった。それはいつ頃まで続いたのでしょうか?

K: 小学3年のいつだったかは分からないんですけど、段々と学校の関係者の人たちが訪ねてくることも増えてきていたみたいで、でも家にいないことも多くて誰か訪ねてきても出ないこともあったので話を進めるのは中々難しかったんじゃないかな。義父が高知にいたので、学校からは母と僕も高知に引っ越して新しい学校に通うことを提案されていたみたいです。

中: 当時そのようなお話はお母さんからどのように伝えられたのでしょう?

K: 度々酔った時に「学校がお前に出て行けって言ってるよ」「もう来ないでほしいんだって」というような感じで言われていました。

中: 提案された新しい生活に対してはどんな印象だった?

K: 義父のことは慕っていたので、3人で住めるならその方がいいのかなって思う反面、不安も大きかったと思います。一度だけ1人で高知に1週間ぐらい泊まりにきていた時期があったんです。

中: それはどんなきっかけで?

K: 母にいろいろ言われてる時に一度だけ「お父さんが欲しい」と泣いた記憶があるんです。

中: 思っていても言えなかった気持ちのひとつだった?

K: 元々はわがままな性格だとよく言われていて、それが段々と自分の気持ちを言葉にする事があまりなくなって、母にはやたらと「ありがとう」の言葉を伝えていたのを確かに覚えています。嫌われたくない一心で母の顔を見て笑って伝えなきゃいけないっていつも反射的に動いていた気がします。

中: 子供時代に抱えるには大きすぎた不安がそうさせていたのでしょう、お母さんの反応は?

K: ひとつひとつの言動や行動を凄く気にしていたからこそ、僕の中で母の行動パターンは小さい子どもながら見出せていました。不満を言った時は母は困っただろうし、悲しませてしまったんじゃないかとしばらく後悔していました。そして言った結果が、「それならアイツのところへ行け」と高知に預けられました。言葉にするということは本当にリスクが大きかったんです。

中: 実際に高知で過ごしてみて、神奈川に帰ってからの心境に変化はあった?

K: 高知での数日は凄く平和でした、僕の中では神奈川に帰った時、母が消えてるんじゃないかとずっと不安にはなってはいました。
神奈川の横浜に住んでいたので帰ってからはもう、ここを離れる日が来るんだなって、同時にここで何か悪いことがあっても義父が自分を待っていてくれているという安心感があったので少し良い方向には向かっていたと思います。

中: お母さんは高知に引っ越すことに対しては乗り気だった?

K: 慣れ親しんだ場所を離れるのは抵抗が凄くあったみたいです。行きたくないとは度々言っていました。「お前のせいで」とはよく言っていました。

中: 高知での生活を始める事となったのは小学4年生の時から?

K: そうですね。小学4年の1学期から高知の学校に通い出したので、3月には引っ越して来ていたと思います。

中: 神奈川を離れる時はどんな気持ちだった?

K: 凄く良くしてくれた人たちもいたので、やっぱり凄く寂しかったですね。それまで過ごしてきた日々のすべてだったので。
幼なじみや学校の友達も、ちゃんとお別れを言えた記憶はありません。でも今も覚えていることは沢山あって。相手が例え僕を忘れてしまっていても、かけがえのない日々に変わりはありません。

中: 当時関わりのあった人たちと今現在20年近くが経過していますが連絡を取ろうとしたことは?

K: ありました。FacebookっていうSNSが20代入ってから凄く流行って、僕もずっと使っていて、最近疲れて休止してしまったんですけど。ある時、これだけの人が使っていたら横浜時代の人にたどり着けるんじゃないかと考えたんです。相手のこともあるのであまり勝手なことはお話出来ないのですが、何人かその時連絡を取ることができて、不思議な気持ちになりました。昔は手紙、家電話が主流だったので、凄く便利な時代になったんだなって改めて思いました。

中: 接点のない人たちを僅かなヒントで繋ぐことができるSNSの奇跡といったところでしょうか。とくにFacebookはそういった面では素晴らしいシステムに感じますね。

中: 神奈川、横浜の思い出の景色や行きつけだったお店はありますか?

K: 沢山あります。戸部っていう町に住んでいたんですけど、家のすぐそばにあった商店街は思い出の場所です。

中: 是非ひとつずつ聞かせて下さい。そこにはどんなお店が並んでた?

K: 家の方から商店街に入るとまず左側に花屋さん、そして魚屋さんが。
右には小さい酒屋さん、隣に屋根のある通路があって八百屋さんが広がっていて、トンネルの中みたいな感じで、凄く今例えるとジブリ感のある場所でした。ひとりで通るのは少し怖くて。
小さい商店街なんですけど、魚屋さんには良くしてもらっていて小学校上がる前なので5歳ぐらいかな、お手伝いみたいな感じでお店に入らせてもらって夕方ぐらいからお店に立ってましたね。ほとんど役には立たなかったでしょうけど。みんな優しくてバイト代もくれたんです。誕生日にはローラーブレードをもらったこと、忘れません。今のご時世ではアウトな話ですね。

中: KENGOさんのエピソードはアウトなものが現時点かなり多いですよ。この場合はその当時ならではの良い部分が凄く伝わるキラキラしたエピソードだと感じました。
他にもありますか?

K: その商店街の周りには行き慣れた銭湯とか、駅前のお寿司屋さんは日曜日に親と買いにいって持ち帰りして。その向こうの通りにはなんて名前だったか、椅子の高いカウンターのラーメン屋さんがあって、すぐ隣には何回か保護された警察署があって。

中: 住んでいた近くの駅周辺は栄えていたんですね。

K: 思い出の店とかは他にも言い出したらキリがないですね。伊勢崎町や桜木町、みなとみらい、横浜駅周辺、よく行ってましたね、移動が当時は歩きや自転車、タクシー、電車、バスがメインでした。
みなとみらいに行くまでに大きい高架線があって国道沿いに歩道と大きい壁がずっと続いてるんですけど、スプレーの落書きというか絵が描かれていて、母とよくそこを歩いていたので思い出に残ってます。
近くに「砂場(すなば」っていうそば屋さんがあって、そこのいくら丼セットが大好きでした。

中: ファンの皆さんは是非、神奈川県にご旅行の際は!KENGOさんご自身、育った場所を周ったりすることは最近はなく?

K: もう何年も前ですが、住んでいた場所をひとりで歩いて周りましたね。1番最初に住んでいた家はボロアパートだったのが綺麗なマンションになっていました。そば屋さんにも行って食べましたよ、いくら丼セット。
壁一面にあった落書きアートは全部綺麗に消されていましたね、見たかったので残念でした。みなとみらいとかは割とそれ以降も行ったりしていますが、細かい場所までは周ってないですね。

中: KENGOさんが実際その場所を歩きながら幼少期の思い出を辿っていくような動画もいずれ見てみたいのですが、そういった企画は?

K: それは前からやりたいことのひとつなんです。映像なら、わかりやすいですよね。僕も見てくれる人がいるなら話すことが沢山出てきそうですし、出来るなら早いうちにやってみたいです。丸一日は多分かかりますね。

中: きっと曲作りのきっかけにも繋がりますよね。その際には後日談をインタビューさせて頂けたら嬉しいです。とても楽しみに待っています。

(続く)

       インタビュー 中田享

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